第5幕
泣きはらした目で帰ってきたルートヴィッヒを迎えたのはローデリヒだった。
ごめんなさい、と小さくいって俯く。
思わず抱きかかえたローデリヒの腕の中で声もたてずに泣いた。
彼が泣くのを見るのは二度目だった。執事になりたいといってこの館に来たころから彼はとても我慢強い子で、辛くても寂しくても人前で泣くことなどなかったように思う。ただ一度だけ、彼が傷だらけの手で泣きながら謝って来たことがある。ローデリヒが大事にしていた茶器を片付けようとして割ってしまったと。欠片を集めようとした彼の手は、鋭い切っ先で切ったのか血だらけだった。痛くてたまらないだろうに、ルートヴィッヒは大事なものを壊してしまったと失った申し訳なさに泣くばかりで、まるで痛みなど感じてないかのようだった。
その時ローデリヒは少し不安になったのを思い出す。彼はちゃんと自分が辛い時に泣けるのだろうか、自分の痛みに泣けるのだろうか。
今だってそうだ。彼は長年の願いを果たせなかった自分の為に泣いているのではない、救えなかった”彼”の為に泣いている。
…不憫でしょうがなかった。
夜も終わりを迎え、朝日が昇ろうとしている。
夜更けの帰宅でざわついていた屋敷内も静けさを取り戻し、眠りの時間へと向かっている。
カチリと、小さな音をたててルートヴィッヒの寝室からローデリヒが出てきた。廊下に、まるで彫刻のようにぴくりともせずに立っていた燕尾服の男が、音もたてずに近づきその手のカップを受け取った。控え目に口を開く。
「あれは…」
「今は落ち着いて眠ったようです。」
茶に近い金髪と深い蒼の瞳。ローデリヒの執事でありルートヴィッヒの父親である彼は主に深々と頭を下げた。
「お手数をかけ申し訳ございません。」
「いえ、謝らないで下さい。貴方にもあの子にも非はありません。
私が不用意にあんな男に会わせたから…あの子を傷つけると分かっていたのに。」
「それもあれが望んだことです。」
ローデリヒは苦笑を浮かべながら傍らの執事を見やる。
「まったく、あの子の頑固な所は貴方にそっくりですね。
…自分が悪い、ごめんなさいの一点張りで。」
「あれがそういうならそうなのでしょう。」
「あんないい子に落ち度があるわけないでしょう、あるとしたらあの馬鹿に決まってます。」
ポコポコと怒りだしたローデリヒにもう一つ、人影が近づいた。
「来たわ。」
落ち着いた色のフリルワンピースを身にまとった長い茶髪の女性だ。しかし何故かその手には、不釣り合いなクッキングパンを握りしめている。
「一体どのつら下げて来たのかしら。あの子を泣かせておいてただですむと思ったら大間違いなんだからね。」
その言葉にローデリヒが深々と頷く。
「そうですね。しかしまぁ話だけは聞いてもいいでしょう。
…もう夜も明けますし、追い返すわけにはいきません。」
彼の視線の先、小さめの明かり窓の外では闇が退き、暁の気配が濃厚になってきている。
夜が終わろうとしていた。
カツカツカツ…
規則正しい靴音が響く。
館の使用人達は『執事長の”ぼっちゃん“を泣かせた者』の来訪を喜ばなかったが、彼らが仕事を蔑ろにするようなことはなかった。
だがその全てのもてなしを断り、コートすらまとったままの姿で彼はその部屋に向かっていた。
カツカッ…
靴音が最後の角を曲がる。
「何をしにきたのです、ギルベルト。」
廊下の壁にもたれるようにして立つローデリヒがその道を遮った。
身体を起こしてギルベルトに向き合う。
「無理矢理押し付けた私が馬鹿でした。
執事はいらないのでしょう?ならばここに用はないはずです。」
氷のようなその視線をしかし、ものともせずにギルベルトはつっと唇の端をつり上げて答える。
「執事はいらねぇ。俺が用があるのはアイツだけだ。」
「泣かせて追い返したのに?」
ぐっと言葉に詰まったギルベルトを横目でみながら更に言葉を重ねる。
「これ以上あの子を傷つけることは許しません。何をしにきたのか知りませんが、あの子には会わせませんよ。」
「…それを決めるのはアイツだ。」
苦々しげに食い下がるギルベルト。と、その後ろから急にもう一つの気配が現れた。
それを感じたエリザベータがクッキングパンを構えてローデリヒを後ろに庇う。
『…!?』
ふわり、と、黒翼が彼を覆う。
彼を守るのはあまりにも小さいその翼の向こうで、ギルベルトが苦笑を浮かべるのが見えた。
それはあの小鳥だった。金の小さな身体からまるで不釣り合いな漆黒の羽が生えている。異様なはずのその姿は不思議と美しかった。
雰囲気から主の窮地と感じたのか、コートの中から姿を現し、その身を以て彼を守ろうとしている。
「大丈夫、虐められてる訳じゃねぇよ。」
ギルベルトは右手を上げ、小鳥の胸元を撫でてやりながら言った。
その優しい手に安堵したのか、音もなく翼はしまわれる。チ、と一言だけ鳴いた。
「ギルベルト…貴方…。」
ローデリヒは信じがたいもののようにその様子を見ていたが、恥ずかしげに苦笑を浮かべるギルベルトと目が合うと頬を緩めた。
決して何者をも近づけず、契約者も眷属も持たなかった孤高の純血種。
しかし今の姿はどうだ。小さすぎる眷属を優しく撫でる、その目にはかつて持ち得なかった光がある。
帰ってきたルートヴィッヒの様子から何も変えられなかったのかと悔やんだが、そうではなかったようだ。
ふっと小さくため息をついて、前に立つエリザベータの肩に手をかける。
「もういいですよ、エリザ。」
「でもっ…!」
「会わせてあげましょう。それがあの子の望みでもある、そうでしょう?」
ローデリヒに諭され、それでも納得がいかないのかエリザベータはギルベルトを睨みつける。
幼くして館に来たルートヴィッヒ。母親や兄弟と別れ、父親は師であった彼を、家族のように愛したのはエリザベータだった。弟のように、息子のように。
時に真面目過ぎるルートヴィッヒを無理矢理休め、傍らで歌を歌った。休みにすら働こうとする彼を遠乗りに連れ出し、花畑でピクニックをしたこともある。
彼女にとってはルートヴィッヒは守るべき愛し子なのだ。
しかし、だからこそ、その子の望みも知っていた。
「…今度泣かせたら絶対に許さない。」
「わかってる。」
道をあけたエリザベータの横をギルベルトが通る。
切れてしまうのではないかというほどに唇を噛み締めた彼女を、ローデリヒが優しく引き寄せた。
ほんの少し、羨望の色をにじませた紅がそれをみて、すぐに目を逸らした。
目指す部屋は通路の突き当たり。
その前に燕尾服が控え目に立っていた。姿勢をピンとのばし、特に何を言うでもなく、もちろんその眼差しにギルベルトを責めるような色合いは全くない。
あと一歩をつめれば彼は何も言わずそこをどくだろう。なぜなら彼は執事であるから。主がギルベルトを彼の息子に会わせると決めたなら、その決定に従うのみだ。
だけど彼はそこに立っていた。
あるいは、今まで敢えてみせまいとしていた父親としての情がそうさせたのかもしれない。ルートヴィッヒが道を決めたそのときから、彼は父親である以前に師であった。仕事について厳しく叱ったことはあっても、父親らしい優しさをみせたことなどなかった。
けど愛していないはずがないのだ。人狼は群と同族を大事にする種族…群を抜け、吸血鬼に仕えるものになったとしてもその思いは変わらない。そしてなにより、我が子を愛さない狼はいない。
その思いが彼をそこに立たせていた。
「ーーーー。」
彼を前にしてどうすればいいのか、正直ギルベルトには分からなかった。真面目な雰囲気とその風貌がそっくりなーーールートヴィッヒの父親。”父親”や”家族”といった、自分がかつて持っていたはずのそれは遠い記憶の彼方で、どんな存在であったかわからなくて。でも彼がルートヴィッヒを愛しているのだけは分かったからとても緊張した。
きっと、彼に誠意を示したいのだ、と思う。理解して欲しいと、そう思うことは彼の人生であまりないことだったから戸惑うばかりだ。
ギルベルトは少し考えると、おもむろに動いた。
その場の者が目の前の信じられない光景に息をのむ。
彼はコートの裾を払い片膝をついた。そのまま深く頭をたれる。
それまで誰にも屈したことのない、孤高の存在であった彼が跪いたのだ。
そうしてしばらく俯いていたギルベルトは、おもむろに顔を上げると彼の目をまっすぐに見つめた。静寂を裂いて口を開く。
「ここでぐちゃぐちゃ言ったって信じてもらえねぇだろうことは分かってる。
俺はアイツを傷つけた。それは間違いない事実だ。…馬鹿だな、アイツは俺に手を差し伸べてくれていたのに、俺にはそれが分からなかったんだ。
でもやっと何かが分かりかけてるような気がするんだ。それをアイツに伝えたい。もう俺の言葉なんて受け入れてもらえねぇかもしんないけど、それでも言いたいんだ。
お願いだ、アイツに会わせてくれ。」
見上げる深紅にいつもの巫山戯た色合いはなく、ただただ真剣な光があった。
何とも曖昧な表現になってしまったかもしれないが、これが今の自分の正直な気持ちである。これで分かってもらえたかは正直疑問だった。ただ、彼を納得させることも出来ない自分にはルートヴィッヒに合う資格などないように思えて、必死だった。
ふぅ、と彼は息をついた。
「どうか、私などに頭を下げないでください。それでは私の立場がありません。」
ギルベルトが立ち上がると、彼は一歩横に退いた。
「どうぞ。」
示した先にはルートヴィッヒの部屋。
「感謝する。」
ドアに手をかけるギルベルトの側から控えめな声が告げる。
「貴方の言葉が届かないわけがありません。あれは、ずっと貴方だけをお慕いしてきたのですから。」
振り返ったギルベルトに柔らかな笑みだけが返される。あとは本人から聞けという事なのだろう。頷いたギルベルトに完璧なお辞儀をしてみせると、彼は廊下の向こうに消えた。
朝の光とともにそこには誰もいなくなり、ギルベルトだけが残された。
† † †
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